「この会社が再生しなかったら、先生の責任だからね。」
当社の社屋最上階にある、黒とシルバーの調度品に囲まれ、壁がすりガラスの構造となっている冷たいデザインの役員会議室で、その声は響きました。
長机の真ん中で彼と弁護士さんとそのお弟子さん5人と向かい合う、私と役員(この話の冒頭に登場した事業責任者の役員)は、彼の発したその言葉を聞いて「何言ってんのこいつ?」と呆れ返ってしまいました。
言われた弁護士先生は、もっと呆れた事でしょう。
彼の代理人を引受けたことを後悔しているかの様に、色白ながら小じわの多い紳士は天井を見上げました。
白髪をきちんと七三に分け、濃紺縦じまデザインの仕立スーツを着こなしたこの人は、倒産関係専門の先生として書物をいくつか出されていました。
大先生とまではいかなくとも、中の上くらいの位置付けで、私も彼の執筆した本を読みましたが、倒産時の情景や人の動きにまで、経験者にしかわからない感覚的なところを多く述べられ、知識だけではなく場数もこなしてこられた先生であることがわかりました。
倒産と言う辛いイベントに、真摯に向き合ってキャリアを積んでこられ、だからお弟子さんも何人もついて、それなりの弁護士事務所の経営者になっているのだと思いました。
私が室長さんからホテルのロビーで、最後の助かる方法つまり再生型法的整理を行うための申立準備に入った旨を告げられてから、ひと月ほど経っていました。
室長さんとはあれ以来二度と、連絡を取合う事もお会いする事もありませんでした。
せっかくの初夏の空気を感じさせない、この無機質なデザインになぜか未だ馴染むこの御曹司が申し立てたのは「民事再生法」でした。
ただでさえ難易度が高い手続のため引受ける先生が少ないのに、名のあるそれなりの先生をつかまえて、たんなる請負業者の様に見下したうえに自分のやらかした所業の後始末の責任まで押し付けようとしている態度・・・「おそろしく大きな勘違いしている」としか思えないセリフでありました。
室長さんは、毎日この男(御曹司)からこの様な言葉を投げつけられていたのだろうと思うと、可哀そうでならなくなりました。
いや、室長さんだけではなく金庫番、その他の幹部の方々もそうだったのでしょう。
親子で放漫経営の限りを尽くし、真面目で誠実な従業員の方々を顎で使い倒し、人生の貴重な時間を奪ってきて、時には法律違反すれすれの事を強いてバレたら彼らのせいにする、そんな所業を続けて来ながら、まだ懲りずにいるところは、「こいつが暗黒物質を生み出しそして吸い続けるブラックホールなのかな?いや本体はあの親父だな?」と思わせるのでした。
役員:「どうしてこうなったんですかね?」
御曹司:「幹部の連中が無能だったから、それと当然、私も同様だったからです。」
役員:「とても残念ですね。」
御曹司:「上場が目の前に見えてきたところで、銀座で夜をご一緒したのが思い出ですね。」
役員:「・・・今後はどうするんですか?」
御曹司:「無能な役員どもは全員解雇しました。あとは従業員の雇用が守れる様にいろいろ手を尽くしたい。」
私:「再生計画が認可を受けた後はどうするのですか?」
御曹司:「スポンサー次第なのでよくわかりませんが、私は退任します。」
私:「まさか、ほとぼりが冷め忘れられたころ、再びこの業界に出てこないですよね?」
普段の性格とは反対の殊勝な言葉を吐き続ける御曹司に対して、私はあの時に受けた侮辱的で辛辣な言葉の数々を根に持っていたのだと思います。
思わずこの様な言葉を発してしまいました。
良かれと思ってやった事に、同僚の前であれだけ人格まで否定されるほど非難されたのですから、本音としては、こんな言葉だけでは足りませんでした。
御曹司:「まさか、もう出てくることはありませんよ。」
過ちを認める風でもなく、自分自身もこの業界はこりごりだ風な態度の彼に、私には「二度と出てきて欲しくない」と思えるほど憎い存在に映るのでした。
この親子のために、どれほどの人々が苦労を強いられ、犠牲になっていった事か・・・。
そして新たにこの弁護士さん達が振り回されるのでしょうか。
私と役員は、御曹司と先生方をエレベーターまでお送りしました。
思えば私は、たくさん自分の会社を倒産させてしまってお詫びに来た経営者たちに、ここでお別れの挨拶を告げてきました。
みなさん一国一城の主として君臨し、彼らの最盛期を知っていればいるほど、今後の転落人生を思いながらお見送りするのは、胸が締め付けられるほど切ないものでした。
まさに地獄へ下るエレベーターの乗り口と例えてしまうのでした。
でも今回この御曹司には、このまま暗黒物質ともども地獄に吸込まれて行って欲しいと思ってしまったのは、悪い情念だったでしょうか。
そしてエレベーターのドアが閉まり一行を見届けた後に、私は役員に対して報告しました。
私:「そういえば・・・申立後に内部発信と思われる、あの二人の怪文書を入手しました。」
(⑲に続く)