C社の破産を知ったのは、出向先の役員会の準備をしていた時でした。
知らせを聞いた私は、出向先の役員会室の窓から影絵のように映る夕暮れ時の富士山を見ながら、つぶやいてしまいました。
「あぁ・・・来てしまったなぁ。」
C社の突然の倒産は、業界内外に激震が走りました。
報道では融通手形の乱発が発覚し負債はC社の年商を上回る200億円以上、連鎖倒産も40社を超えるとされ、これに大きく関与した当社の不良債権は30億円を超えるとされました。
反社との関りも噂され、当社を含め業界全体の信用を地に落としたのでした。
カリスマ副会長は会社を辞め、オーナーは関与した役員の処罰と立直しを市場に誓うも病に倒れ入院し、司令塔を失った経営陣は即効性をアピールするため社員の大リストラを行いその結果、人不足を招き、出向先から帰りたがっていた私をやむを得ず帰任させたのでした。
そして私に待っていたのは、債権回収と監査の厳しいヒアリングでした。
債権の回収を行う職務は、出向先でも勉強を続けていましたし当然、覚悟を決めて帰任したのですから望むところだったのですが、勝手が違ったのは監査(法人)の対応でした。
自社の監査だけでなく、今回の事件に巻き込まれ債権者となった企業の監査からも彼らの営業担当者を通してヒアリングを仕掛けてきたのでした。
彼らの目的は当社が犯罪者で自身は被害者を立証すること、そしてことの発端はそちら側にあるのだから「代わって賠償しろ」と言わんばかりに攻撃してくるのでした。
その中で最も刺さったものがありました。
「与信飛ばし」という名の行為です。
当時は“飛ばし”なる言葉はよく使われていて、山一證券の倒産のときは特に脚光を浴びました。
この事件の前まで当社と蜜月だった某大手リース会社D社は、C社に30億円以上の不良債権を被ってしまっておりました。
はじまりは当社のC社に対する与信枠の金額を彼らが知った時でした。
それまでは、「御社の与信枠は当社の与信枠」と持ち上げて当社の担当が勧めるままにリース取引を受け入れていました。
リースのユーザー会社になる当社の取引先を把握するのに手っ取り早かったのだと思います。
ズル賢い手法です。
拡大一辺倒の業界でしたから将来の利益を考えたら、いま背負う債権リスクなど十分吸収できる。そうして一巡したら、成長が停滞するので与信リスクは高まるものの一層リースの需要が伸び、あとは自身の与信手法でゆっくり料理していく算段だったのだと思います。
しかしその予定が、大きく狂ってしまったのでしょう。
この事件をきっかけに、当社の不良債権額が報道と違い数億円と少なすぎる発表に違和感を抱き、D社は当社に詰め寄ってきたのでした。
「おかしいっ!!」
それもそのはず、年間取引100億円を超えていたとされていたのに、当社の与信枠は1億円だったのです。そう、取引のほとんどがリース取引に変更され、債権リスクはD社をはじめ大手リース会社に移っていたのでした。ですから、そもそも最初からリスクを擦り付ける目的で「当社はC社と結託しD社にリスクを負わせていた」と決めつけてきたのです。
つまり「嵌めた」のだ、と。
当社の監査法人からも言われました。
「これは経由販売行為、与信飛ばしの疑義が生じます。」
それらが故意だったのか・・・犯罪行為になるのかをはじめ、副会長ほか主だった関係者は既にいなくなっており確かめる術はありませんでした。
「立証頂ければ当社が買戻し、所有権留保物件として全国に残ったリース物件を引揚げますが・・・。」
取組の一環で最初から買戻し保証をしていたリース物件以外は(と言ってもこれだけで全国4000件の物件がありました)、彼らから当社の飛ばしを認めない姿勢を覆す明確な裏付資料は示されることは無く、お互いに不信感が悶々と募り、感情のしこりだけが残り、D社をはじめ多くのリース会社が当社から離れて行ったのでした。
さらに、私の前にC社の破産管財人が立ちはだかりました。
当社が、すでに現場に設置されたゲーム機についてリース会社に売りを立てたもののリース会社が認めなかった物件について「当社に所有権がある」と主張し引揚げ許可を求めたのですが「これは御社の所有ではない、同時にリース物件でもない」と回答してきたのです。
では何なのか?ということになると
「ただ置いてあるもの」
というとのこと。
「は?目の前で稼働しているマシンがただ置いてあるもの??」
破産物件として配当の財源になるかも?というお考えがあったのでしょうか、しばらくすると価値がなくなったと判断したらしく、当社へ引揚げを命じてきたのでした。
その引揚げに6000万円以上かかり資産の転売機会を失ったばかりか、不毛な作業と負い銭まで負担する事になりました。
こうして大きな不良債権を被ったうえ多額の追い銭を払う羽目になり、卑怯なリスク転嫁の行為のほか反会勢力との関りの疑いもあって財務的にも社会的にも信用を失いジワジワと市場の制裁を受ける様になりました。
リース会社から総スカン、取引先が同類のレッテルを張られ貸渋り・貸剥しに会う、取引信用保険会社からも邦人系・外資系問わず保全商品の供給を断られました。
それらの反省をもとに当時の経理財務担当者が、苦肉の策で考えた改善案が現場に降りてきたものの、実行に移す人間も既にいなくなって無人の机島ばかりの事務所に、私以外いなくなっておりました。
内容はこんなものでした
①債権がリース会社に移される前提であっても、取引先に一度販売し自社の与信枠をくぐらせる。
②枠以上の債権を発生させる場合、通常の与信枠の増額手続きを行う。
③リース会社と取引先の契約が成立した旨を確認し、取引先の債権をリース会社に移す処理をする。
④リース会社の与信枠が足りなくなったら、取引先と同様の方法で増額手続きをとる。
⑤取引先には、一回目のリース料を決済するまでは所有権は当社にあると念書をとる。
つまり、リース会社と取引先がちゃんと契約を行っているかを監視し、どちらの与信枠も見て証跡を残し、取引先とリース会社どちらが倒産しても販売物件は所有権留保して押さえる。
前項の、倒産列伝013~バブル清算期の記憶「鬼の形相、仁王立ちでお出迎え」でも述べましたが、リース会社も倒産する時代だったためあらゆる有事に保全が効く様にする必要があったのでした。
この様に、特異な独自ルールが作られました。
このルールを設置後、念書については幾度も取引先やリース会社とトラブルになりかけました。
その際の交渉には営業だけでなく発案元代表として私も出張り、今回の反省が元であると理解を求め、取引先の苦情に耳を傾けながらも本質は変えない改訂を少しずつ行い、会社の浄化に協力を得る日々を過ごしたのでした。
(④へつづく)