「当社は営業の動きと私とでは結果、ちぐはぐな動きをしてしまっていた。」
そう気づいた瞬間でもありました。
自分はA社の再生支援を会社に意思決定させることばかりに意識を傾けていたけれど、肝心な営業の動きを見ていなかった・・・。
A社の再生に協力する事、自らもリスクを負う事(与信枠の再設定)、これまでの商品供給を可能な限り最盛期の状態に戻す事を目標にする等々、すべて会社の意思決定を経て正当なプロセスを得たはずでした。
でもサラリーマンかな・・・事実上ほとんどA社に対する債権回収を適えた事で、当社側の人間すなわち営業側や上層部の本来主役足る連中が、みな心が離れてしまっていました。
私自身も心が離れてたわけでは無かったのですが、忙しいあまり一時部下に任せっきりになっていたことへの後悔が湧き出てきたのでした。
更生計画における一般債権者への弁済スケジュールは5年間だった記憶です。
当社は、大半の債権を保険会社に譲渡していたので、少額となった債権を更に5年分割弁済(弁済年1回)とされ関係者の気にも止まらない金額になっていました。
その保険会社も当社から譲受した債権について、E先生が打ち出した更生計画の精度と我々メーカー側の支援姿勢から弁済の可能性が高いとみて、保険金を当社への貸付金のような形にし、A社から弁済が行われる都度、当社が受取済みの保険金を利息なしで返還するかたちとなりました。
もしA社の更生計画がとん挫したら、そこで正式な保険適用とすれば、多少は彼らも回収できたこととなり、保険会社内の上層の方々も面目が立つ(当社への高額な保険金を支払う様な保険商品を契約してしまった負い目や責任)というものだったのでしょう。
あとはA社の更生計画の履行状況を見守るのみです。
しかしながら、5年間という時間は一般の債権者たちの気持ちを削ぐに十分長いものでした。しかも債権を任された当事者であるY氏も元サラリーマン(Y氏はA社の元部長職)でしたから、ある程度のんきになるのもわかりました。
A5ランク級の牛のサイコロステーキをたらふく味わった後、彼の発した言葉は
Y氏:「今後、御社から商品を買う事は、あまり無くなるかと思います。」
というものでした。
まさに「アンチ当社」の宣言を行った瞬間でした。
Y氏:「古株のあなたならご存じだと思いますが、隣の県で同業の経営者をされておられるFさんにいろいろと経営指南を受けておりましてね。その教えにしたがうと御社の商品を買い続ける事は再び破滅へ向かう事と同じであると思ったんです。」
ここで登場したFさんの名前は、大先輩にあたるOBのことで当社の最盛期に営業部門を引っ張っていた部長でもあった人物のことでした。
つまり私の上司でもあった人です。
遡る事、私が入社直後から数年間の間お世話になった方でした。
個人的な付き合いになると意外に優しいところも多い方でしたが、理論家で冷徹な雰囲気のある人物として有名でした。
彼は部長職としては珍しく、取引先をまめに足しげく訪問し、ニーズや不満を部長の視点から拾いあげる努力家でしたが、同時に理論家であるがゆえに取引先の社長の意見にも反論し、討論となれば論破してしまうまで徹底的に噛みつくところがあって、プライド高く虚栄心の高い年長の経営者たちにとっては「折合いを付けない」「客を言い負かしすぎる」「妥協しない」と嫌われた存在でもありました。
でもまさにこの方の組み立てる市場戦術は、商品力も相まって当時の時流にはまり、連戦連勝の一時代を気づく勢いだったので、「苦い薬は良く効く」と取引先の社長さん達は、好きでも嫌いでも、あえて称賛し認めたものでした。
ところが会社の勢いが踊り場に差し掛かったころ、突如部長を解任され、隣の付属部署の副部長職へと左遷されてしまいました。
異動のうえ降格だった記憶です。
理由は噂の域を出ませんが、当時権勢をふるっていた中興の祖とされた代表トップのご子息の結婚式に招待され出席するために申請した社員の有休届を却下したことや、気に入らない部下を精神が病むまで徹底的に苛め抜いたパワハラなどが挙げられました。また、連戦連勝の成果から態度が大きいとか生意気だとか経営上層部の役員連中からも疎まれていた様で、そこに彼をよく思っていなかった取引先からの不満な意見も加わり、それらが総合的に判断されて、彼の貢献度を打ち消すほどの材料が出そろい、目の上のたん瘤と思っていた上層部から都合よく「出る杭」として叩かれた感じになったとのことでした。
高卒の叩き上げ、一匹狼で派閥的に組する活動もしていなかったので、Fさんがこの圧力に立ち向かう事は出来なかったようです。
ご自身にも毒はあったけれども、全体的に見れば部署の最盛期を導き、会社だけではなく取引先の経営改善策にまで影響を与えるほどの論客で、しいては業界全体に貢献されていたと言っても過言ではないと私は評していた方だったのですが、組織の感情的な動きというものは実に残酷なものだなと感じました。
そんなFさんでしたが、まだ部長職時代に当時若かった私に対して営業所を訪ねてきた際、たまたま事務所にいた私に「めしでも食いに行こう」と誘って頂き、そしてその席でこんな教えを授けてくれたものでした。
Fさん:「いいか?ウチの業界の営業マンはモノ売りであってはならない。たいていの業種では売るのが上手な営業マンが称えられるはずだが、当業界にそんな営業マンがいたら取引先を潰してしまうんだ。悪い物を売りつけてしまうからだよ。悪い物を売りつけると取引先の売上不振を招くうえに財務負担が増し経営の重荷となる。だから当然、営業マンは「悪いものは悪い」とはっきりとした評価を見定める能力は身に着ける事が大事だ。そしてそれを汲んだ営業の上層が、会社が判断を間違わない様に売れないものはあまり生産しない方向に図るんだ。
よその中間業者のセールスマンは、売れるモノだけ仕入れて売っていればいい。
しかしメーカーはそういうわけにはいかない。
特にトップメーカーの当社は、常に業界の事も考え、世に飽きられない様な新しいモノを開発する宿命を負っている。しかし新しいものは世に受入られにくい事も多い。だから在庫になりやすい。ここで矛盾するのだが、取引先にはやっぱり売れるモノも売れないモノも買ってもらわないと会社がダメになってしまう事情も理解してもらう必要が出てくる。そこでその矛盾を解消するに、取引先(特に社長)に対し経営の指南が出来る様にならなければいけない。
取引先の社長たちは経営者として会社の成長が最大の目標だ。彼らは経営全体に資する情報や金儲けの仕方を欲しがるんだ。今一番経営者が欲しがっているのは成長戦略と、それに必要な資金だ。
しかし未だ社会的地位の低い取引先(いわゆるゲーセン)らは銀行に相手にしてもらえないから当然必要な融資枠を得られにくい。そこで、「社会的地位や信用を得るには?」「銀行から融資を引き出せるようになるには?」まで、その会社の社長のかゆいところに手が届く様な経営のヒントとなる情報商材を集め社長に伝え、取引先の成長と繁栄を後押しする存在にならなければいけないんだ。
それが適うと彼らは儲けた余剰資金で、ほっといても売れないモノも買ってくれる様になる。ただし、そうなるためにはお前自身も勉強が必要だ、俺も創業したての社長と一緒に銀行の窓口に行って融資を引き出すための資料も一緒に作成し寄り添って着いていき、借入に成功した時はうれしかったもんだよ。」
私:「でも私の様な若造の話をいっぱしの会社の社長、ましてや創業社長で年も言っている方々が話を聞いてくれるでしょうか?」
Fさん:「あほう、若いからって委縮する必要なんてないんだぞ、歳なんかも関係ない、まずは経営に関する知識を得ておくことだ、決算書、経理、法律等々勉強する事は数多くある。社長に信用してもらい、話を聞いてもらえるだけの知識を得ておかなければいけないんだ。そして経験を積むんだ。トップメーカーとしての看板も後押ししてくれる。そうしたら将来に心配はなくなるんだ。いいか?もう一度言うが、取引先には目先の利益だけではなく全体的な経営に資する情報の提供やアドバイスが出来る様な広い視野を持つ営業マンにならなければならないんだ。そしてそれが出来る様になったら、さらに自分の担当地区を俯瞰した市場戦術を考えられるよう目指せばいいんだ。」
当時の私とっては、どれも雷に打たれたような衝撃になったのでした。
入社2~3年目のことで、売上がスランプに陥り成績が上がらないうえ、数千万円の貸倒被害(債権を拵えたのは前任でしたが)も被ってしまい、最悪な精神状態だった頃で、環境のせいにしたり市場のせいにしたり、浅知恵な保身発言ばかりしていて将来が見えなくなっていた時の事でした。
別のある時には、私が一言「自分はセールスマンに向いていない、事務職や工場勤務の連中はノルマに追われず、のほほんとして楽ができていうらやましいなと思う。」とぼやいたところ、それを聞いたFさんが、またまた「あほう!!お前の販売する商品の粗利で、どれだけの社員を雇っていると思ってるんだ?彼らこそコストに追われ、コストと見なされ大変なんだ、会社の仕組みの勉強が足らん!!そろそろ責任感も持て!!」と一喝されました。
それを聞いて「なるほど、自分がこんな何気なく発する一言が営業マンとして足りないヤツ」「勉強していないヤツ」と見抜かれ信用を落とすんだなと、まさに「物が売れなくなるはずだ。」と気づいた瞬間でもありました。
Fさんは、成績や能力のあるなし関係無く、近くにいる若手営業マンにそんな説教をしていました。
たまたまでも捕まると長い話になるので聞くのが大変で、逃げる同僚もいましたが、聞けば大変ためになる話ばかりで、そこかしこつかまえて話すのは、みんなに平等に話してくれている考えの方なんだと感じたものでした。分からなければわからない成りに何回も話してくれました。
今思えば、彼はBtoB営業としてかなりの高いレベルを目指していたのだと思います。
それから私は、経営の指南本、決算書や有価証券報告書などの企業会計の本を買い集め営業車の後ろ座席において、移動中の高速道路が渋滞で動かなくなったときに逃げ込んだパーキングや、営業に行く合間のサボり時間に、神社や公園の木陰に車を止めて、知識を高めるためにこれらの本を読み込むことに決めたのでした。
しかし悲しいかな、会社にあった日経新聞の一面すらも書いてある用語が分からず、ちんぷんかんぷんだったし、勉強など受験以来ほとんどしてこなかったので、本を手にとっても数秒で睡魔に襲われる有様で、理解力の乏しい私がおおかた理解できる様になったのは、そのずーっと後の、この与信管理の実務をはじめてからたくさんの倒産した取引先の実例を見ての事で、やはり頭の悪い自分にとっては、実務の経験を教科書に照らし合わせながらの、少しずつ礎を積み上げる方法が合っているのだとつくづく思ったものでした。
さて若い時の私とFさんの関係についての話は置いといて、本筋の話に戻りますが、彼(Fさん)が会社を辞めたのはバブルの清算が始まり、彼を左遷に追いやった代表が辞任し、そしてその後一人で当社を支えていた当時のオーナーが病床に入っているとの報道が出た時くらいの事でした。
マスコミでも大きく取り上げられて始まった、創業以来2回目のいわゆる大規模な早期退職制度のときだったと記憶しております。
会社の最盛期を築いた往年の古株たちが、あっさりと去って行きました。
しかしながらその際、またしてもFさんは私に衝撃を与える事をされたのでした。
なんとその早期退職金で、取引先を買収してしまったのです。
(⑱へつづく)