まず最初に示した資料は、これまでのH社の業績の推移グラフでした。
Oさんは代表者ですから、当然にこのグラフの動きの事実根拠を説明できるはずです。頂いた決算資料で一番古いものが過去最高売上、最高益ともいえる実績を計上された約10年前、そこからスタートして右斜め下45度の角度で減収減益を続け、今や存続の危機の状態になっているテイを示しているのです。
O氏:「バブルが弾けた時代だったので世間は沈んでいましたが、思い返せば・・・当社にとってはあのころ(グラフの最左端)はまさに絶頂でした。やはり遊園地や子供用の乗物遊具の製造だけではこれからの時代食って行くのは困難だということで、当時注目を浴び始めていたOEM生産を(私が)打ち出したんです。御社をはじめ、業界の最大手企業たちが当社の技術力に興味を示して頂き、話に乗って頂きました。特に御社は、業界内の業務用(アーケード)マシンの販売戦略においてビデオゲームはシェアを伸ばし過ぎたので、商品ラインナップをあらゆるカテゴリに用意することで市場占拠率を維持しようという目論見もあったとのことで、特に子供用乗物分野をターゲットとして当社の製造技術に注目して頂けたのです。」
私 :「たしかに当社は、御社の製造された子供用乗物マシンを、ある時期矢継ぎ早に数種の製品を当社のブランドとして販売しました。当時営業マンであった私も、同業メーカー直営店舗用として販売する旨そのノルマを背負わされた一人でしたが、製造元である御社も販売を行っていましたし、しかも当社より価格も安く販売されていたので、どうしても遊園地稼業の取引先はみな御社との関係性を重視して“OEM製品でブランドは違っても製造元から買う”との考え方が多く、販売元であるはずの当社からは買ってもらえず、大手メーカーの直営店仕入部門のほとんどにノルマ通り売ることができず、かなり苦労させられたのを憶えています。」
O氏:「当時のH社は子供用乗物のFRP(樹脂強化プラスチック)の製造に定評がありました。立体的で重厚感のあるデザインや明るい色合いなどオリジナルの再現力が高く、価格は割高ながら中国製では到底できない品質を提供する事が出来ていて、大手さんから二次元のアニメキャラクターなどの立体化した乗り物など多くの受注を頂きました。」
私 :「まさにOさんの戦略は的を射たわけですね。」
O氏:「いえいえ、滅相もありません。真面目に頑張ってくれたのは先代のころから仕えていてくれた年配の職人たちです。彼らの技術力に注目してくださったんだと思います。」
私 :「当社(私の会社)の当時の代表も、販売力では世界一を自負していて、これらの品種(子供用の乗物など)もそれなりの在庫を抱えながらも売りさばいてくれるだろうと信じていたと思いますが、かなり長い期間在庫を抱え、経営難が明るみになったときもそれ相当の在庫が残っていました。ゲーセンのオープン案件など無くなって市場が縮小していく一方の中で販売していくのは苦労を極めました。当時の市場の見通しの甘さ、戦略策定の甘さに理不尽さと憤りを感じたものです。」
O氏:「一方で当社は、製造着手金として数千万円から億の金額をポンと先払いして頂いていたので資金繰りがとても楽になって助かり、大変感謝しておりました。手形を振出して頂くと御社の銘柄はすぐに割引に出す事が出来たので、現金化が楽でした。(御社の)経営難がささやかれはじめ手形の割引手数料が高くなってくると、個人的に頼めば小切手の振出もしてくれたので、まさに神様の様な存在でした。」
私 :「キャッシュフローを考えずに、銭がめの底に穴がいている事にも気づかず、ええかっこしぃの金持ち気質を振りまいていた頃ですかね。私たち若者社員の犠牲もありましたが、御社にとってはありがたい存在だったのですね。」
O氏:「もともと御社はアーケード業界のビデオゲームでは世界一のトップ企業でしたが、やはり創業の起点がこの事業でありました故、我々のような弱小同業者に対する理解もありました。(当時の御社の経営は)下請企業や同業に対する愛情を持ってらっしゃいました。こんなことを言っては失礼ですが、他のメーカーは(H社の様な格下の企業であっても)同じ目線でライバル視する傾向が強く、(御社の様に)製造開発のコスト負担を前金で支払う事で救済を考えながら育成していく発想は無かった様に思います。つまり市場を育てていくという思想などありませんでした。そういう思想はトップ企業である御社が持っていればよかったのです。彼らは支払いも通常の締め支払いで、金額も値切るし、通常の取引方法と何ら変わらなかった。また少しでも買掛があると、当社の様な規模の会社は現金が欲しいと分かっているのに容赦なく相殺をされてしまいました。私の打ち出したOEM生産は本来、資金力のない企業にはできない芸当でしたが、それを実現してくださったのは、まさに御社があったからこそでした。」
私 :「当時の日本経済は最悪の頃ですから、銀行の貸し渋りも厳しく、特に世間から好意的に見られていたとはいえ風俗営業のハシクレとして貸渋りや貸剥がしにあって倒産を選ぶ業者さんも多かったですね。あのパンダやかわいい動物の乗物を製造されて、本業では大型のジェットコースターの製造業として米国のラスベガスまで日本製ライドメーカーとして知れ渡っていたT社さんも、無情にも整理回収機構に倒産させられてしまいました。非常に残念な話で、あのニュースの1年後くらいに有名テーマパークではT社製ジェットコースターが事故を起こしてしまい、あの会社の倒産でメンテナンスの技術が絶たれてしまった事も意味していたので、そのニュースを見て“あの倒産劇は人命を脅かすほどで、社会的に許されないものだった”と憤りを感じたものでした。金融機関をはじめ日本の行政も娯楽業なら潰してもかまわないという価値観が伺われ、やるせない気持ちにさせられたものです。」
O氏:「そうでした。どこの銀行に融資を申込んでも時間がかかり、そしてハードルも高いものでした。人の嗜好に左右され浮き沈みが激しくそのため速攻で生産に入らなきゃいけないための先行資金が必要になる我々の業界は特に嫌がられておりました。すべては将来の生産性向上による経済のダイナミズム発展とか成功した企業になって欲しいと言うバンカー精神としての期待よりも、代表者の個人資産のなかでも特に不動産の根抵当枠の空き具合が融資決裁の決め手になっていました。なので、下請け開発会社にとって御社が銀行の代わりになっていたと言えます。気持ちも分かってもらえたので、みんな頼りにしていました。」
私 :「その割には、恨み節で当社の事を軽蔑する企業も多かったですよね?素晴らしい企業であるけど尊敬できないなどとよく言われたものです。」
O氏:「みんな甘えがあったんだと思います。御社の経営難が明るみに出て気づかされた人も多かったことでしょう。」
私 :「そのOEM生産が功を奏し、高収益企業となったのですね?」
O氏:「はい・・・」
私 :「それらで得た収益は、また次の展開の運用資金となったわけですか?」
O氏:「はい、先ほども申上げました通り、他社とのOEM生産の提携資金になっていきました。」
私 :「え?続けて当社と取組む資金には無らなかったのですか?」
O氏:「いや、もちろんそれもありましたが、おおかたN社やT社との提携資金になっていきました。」
私 :「まあ・・・それでも業界の発展に寄与するというわけなら・・・いいんですけども。」
O氏:「まさに、OEM生産の中でN社もB社と経営統合で多くのキャラクター権利を扱えるようになっていましたし、特にT社との提携では、当時の子供たちは知らない子はいないほどの野球ゲームに対するドーム球場の屋根の部分にFRP技術を担当させて頂いて、それが大ヒットしたことは、間接的に御社のおかげでもありました。業界外でも当社は脚光を浴び、それが金融機関の見方(与信評価)の変化にもつながって言ったかと思います。」
私 :「つまりは、金融機関の融資姿勢が前向きに変化していったという事ですかね?」
O氏:「そうなんです。」
当社は強引な販売戦略を市場に強いることでアンチな取引先からは非難されたものですが、アミューズメント業界の社会的地位を上げることも当時は目標としていましたので、私自身この話を聞いて自社のやってきたことが、やはり業界の役に立っていたのだなと誇りを感じました。
私 :「すると金融機関からは満足いく融資が得られるようになったわけですね?」
O氏:「はい、OEM生産事業の成功により好決算が確実となったタイミングで、取引銀行さんのなかでもメガバンクでメインであったM行さんから十数億円の根抵当枠を見込んだ融資のお話を頂いたのでした。」
私 :「それは良かったですね・・・遅ればせながら銀行さんにもようやくリスクを負担して頂けるようになったのかなと。」
私は、この話の成行きはグラフの推移から決して明るいものではないと分かっていたのですが、話を引き出したかったので、皮肉と受け取られないよう素直に喜んでいる風なこの様な発言をしたのでした。こういう動きがある時はたいてい裏があり、どこに落とし穴があったのかな?と経緯を裏付ける核心にせまりたかったのです。
O氏:「はい、苦労が実ったかなと思いました。」
私 :「それでは、この収益グラフの成り行きは・・・なぜこうなっていったのですか?」
そして私は意地悪とわかりつつも、ご本人の口から伺いたかったので申し上げたのでした。
O氏:「じつは・・・。」
O氏の、この「じつは・・・」というフレーズは今後たくさん出てくるのですが、彼の発するこの言葉は大変くせ者で、私たち(常務を含む)は何度も奈落の底に突き落とされた気持ちになったものですが、ここで登場したのが、最初であったかと記憶しております。
O氏:「彼らが持ってこられた話は、自社ビルの建築話でありました。」
私 :「でたっ。」 棘の道の扉を開けた瞬間でした。
(倒産列伝016~馬を買ったと思えばいいよ⑧につづく)