2025年の年末は、日曜の夜になると競馬の馬主を題材にしたテレビドラマが放映されていて、聞けば高視聴率になっているとの事でした。馬主である叩き上げの経営者、家族の事を顧みず競走馬に夢を託し続けたその男を軽蔑しながらもひたむきな姿に愛をもって接する妻や子供たち、秘書としてその経営者の夢を適えようと奔走する主人公、またその彼の熱い姿と魅力に引き込まれる関係者たち、そしてライバルの馬主・・・。わかりやすい言葉で前向きな気持ちにさせる主題歌。
う~ん・・・似ているような、いや似てないな・・・。
「オーナーS氏をモデルにした話じゃない」との情報を得て、少しホッとしたのは私だけでしょうか。
さて話を元に戻します。
都心ながら街路樹や公園の木々が生い茂り、なんだか緑豊かだなと思えたロケーションの只中に10数階建てのビルがあり、その中にMs氏の事務所がありました。オーナーS氏との縁は全くないとの事ですが、なぜか競走馬や牛馬豚鶏などの畜産食肉関係の事務所が多く入っている建物で、なんだ?とフロア案内を仰け反って眺めると、国の所轄省がとりまとめて管理している様子の建物でありました。
廊下には競走馬の写真や重賞レースのポスター、かたや食肉卸や安全衛生に関する啓発ポスターなどの掲示が並んでおり小奇麗な雰囲気で、雑多で庶民の受付でごった返す地方自治体とは違う、まさに国家の管理する役所と言う感じでありました。
頭髪がほぼすべて白髪で、マッシュカットのような丸っこい鬼太郎フォルムの髪型、小柄で小太り、白いYシャツにグレーのスラックススタイルのお方が、我々の乗るエレベータのドアが開くと立っておられました。
「一度来たことがある」と言うOさんと二人で訪れたのですが、Oさんが1階の受付で連絡を入れると、丁寧にMsさんはビル内のご自身の事務所が入るというフロアのエレベーター出入口まで迎えに来てくれたのでした。
無機質なグレーの廊下を進むと、奥の方にいくつかの鶏食肉関係団体の事務所の表示板が見えましたが、Ms氏が
Ms氏:「ここが私の事務所です。」
と示してくれたのは、うっかり通り過ぎるところでしたが(全く飾り気がなく表札も無かった記憶です)、Ms氏の経営する会社の入口ドアだとの事でした。
Ms氏:「いやぁ空いた余剰スペースをお借りしているもので、狭くて申し訳ないです。」
まさに、奥にある団体の物置だった場所を事務所に改造したかのような作りで、縦長で通路は人が一人か二人が並んで通れる1メートルほどの幅が確保されている程度ながら、奥行きは割と長く来客用の商談テーブルや最も奥に事務机が置ける広さのあるスペースでありました。
Ms氏:「私はお世話になっている先生が、特別に口利きをしてくれて入居できたんですよ。」
私としては、「独立してマイクロ会社を立ち上げたなら最高の事務所だな」と思えるものでした。
そして「まずは自己紹介」となって名刺を交換すると「やはり」、私も過去の記憶が戻ってきたのでした。すかさずOさんが、二人の間に割って告げました。
O氏:「お気づきだと思いますが・・・Msさんは、あのMs工業の社長をやられていたんですよ。」
その時点から遡る事10年以上前です。その頃の私は、営業マン時代での取引先の倒産で味わった債権回収の辛い経験から、企業のしくみについて理解し倒産のメカニズムも理解したくて、そしてそれを回避する予知能力を高めたく管理部門へ異動させてもらい、それらに関連する知識を徹底的に学ばせて頂いておりました。興味のあるセミナー(主に無料の)は必ず受講し、本を買いあさっておりました。更には、やはり頭が良くないうえ叩き上げとしては実際に体験せねば納得いかない事も多かったので、体で覚えようと法務局で不動産登記・商業登記や公図、地積測量図などの取得や閲覧をし、現場を訪れては写真を撮って見比べたり、取引先が倒産した時は地裁に出向き申立書の閲覧や資料の謄写(いわゆるコピー)を行い、分からない用語や手続きのシステムについては書記官に遠慮なく質問し、また申立代理人、管財人の先生方にアポを取り、疑問に思えることについては遠慮なく(顧問弁護士と違いタダなので)聞いて学ばせて頂いておりました。あまりにも馬鹿な事を聞くので同行者が思わず吹き出してしまう事もありましたが、聞くは一時の恥だと思っておりましたし、それに対し眉一つ動かさず応えて頂いた方々には、感謝と尊敬の念を覚えるのでした。当時私の会社は、老若男女皆々多くが楽しめる商品ばかりを世に出しておりましたので、会社名を告げるだけで好意的に教えてくれたのだと思われ運も良かったのだと思います。
Ms社は、首都圏の東側に位置する地方都市の工場群のなかにひときわ鉄と油のにおいの染みた大きな建物がいくつかで構成されていて、その中には黒い砂鉄の様な小山が戦場映画で見る即席墓地の団子塚の様にいくつも盛ってあり、天井から太く頑丈な鎖で吊り下げられたクレーンの先に付ける黒い鋼鉄製のグラブバケットがいくつもあって、団子塚の上に落ちているものもあったり、高い天井の一番上や途中で止まっているのもあり、まったく社会見学でも見慣れない不思議な空間でありましたが、いわゆるグラブバケットを鋳物として製造する過程の一部であったそうで、それを横目に奥に進むと普段は工場の職人たちが詰める大会議室に通されたのでした。
そうMs社は、比較的大きな業務用のクレーンなどの先に使われるグラブバスケットを鋳型で成形しそれらを完成品メーカーに卸す生業の製造業でありました。でもなぜか、その業のラインを応用して事業化されていたのですが、子供用のりもの製造業としても名の売れた会社であったのでした。
おそらく、足腰の弱った定年間近の工員の雇用受け口にもなっていたのでしょう。付属事業としては成功していてブランド力もあり、当社の債権は当社の発注した開発案件にあたっての前渡金で数百万円となっていたのでした。
かつてはヘルメットをかぶり、汗と鉄のにおいの染みた作業着姿の武骨で昭和な男たちがたくさん集い労働争議が繰り返されてきたであろうレトロな雰囲気の会議室に、まったくキャラの違うスーツ姿の面々数十人ほどが静かに座っていました。すでに昭和な男たちの姿はなくなっていて、全く静かな状態です。主にグレーのスーツを着た面々が硬い表情で机上の書面に目を通しておりました。みな金融機関から来た人々だという事はわかりました。上座には代理人弁護士と思われる男性の姿があり、敢えて訪れた方々と目を合わせないようにしているのが分かりました。
私も会議室に入り、中ほどの空いている長机と一緒に置かれたパイプ椅子の席に座り、開始を待ちました。それは、いわゆる「債権者説明会」というもので前日に破産を申し立てたことに対する申立代理人による説明会の開始を待つ、というものでした。よく報道などでは「債権者集会」と紹介されることもありますが、それは間違いです。
「お時間となりましたので、それでは始めさせて頂きます。」と壇上の代理人弁護士が言葉を発し、座席の人々が皆姿勢を正したことで起きるスーツの衣擦れ、パイプ椅子、長机のわずかに動く音が響き渡りました。代理人の話では、創業者であった代表が高齢でありながら継承を遅らせた事や、バブルに踊り多角経営による事業の失敗を重ねた事、後継者である若社長の力量不足で労働争議をまとめきれなかった事などが挙げられ、やむなく破産の申立を行う事になった旨を告げられました。もちろ会社の財務バランスは債務超過で、債権者に資産売却で得た財源をもってしても満額の配当は無理で、更に不動産は土地建物ともに金融機関の根抵当となっており、バブル時は恒例となっておりました“すべてが担保割れ”という惨状でありましたから、残された設備動産や棚卸資産、半製品がうまく換価できたとしても配当は1%に満たなくなるとの事でした。
当時はまだ、バブルが崩壊して間もない頃なので金融機関の方々も皆、昭和の男たちで今と比べれば血の気が荒いほうでしたので、様々な意見が飛び交いました。当時、修行中でありました私は、彼らの発する専門用語に対して、分かるものもあれば分からないものもあり半分くらいしか聞き取れず理解できませんでしたが、先ほど工場内にありました黒い鉄の塊のグラブバスケットを見て「これ持って帰って売り飛ばし、自社の債権に充てる」なんて言えないのは分かるのでした。
「意地でも換価しろ!!」とか、「代表の責任を取らせろ!!」とか、昭和な銀行マンの回収担当者の荒いヤジ声が次々と聞こえてきました。この時、管財人はまだ着任しておりませんでした。当時は破産開始決定まで時間が掛かることが多く、その間にヤクザ者が強制的に動産を持って行ったり、申立人を脅して取り下げさせる事件などもありましたので、今のように静かな債権者たちが言われたことを会社に報告するだけの集まりと化して管財人も早々と選任されている説明会に比べ、先行きが不安なあまり、いろいろな意見や質問が飛び交い荒れに荒れて時間も長引いたパターンが多かったものです。
そんな中、代理人が「今回は大型倒産に入るのですが、直近の製商品のお取引の中で消耗品につきましては買掛となっている部分のいくらかはお返しできると考えております。したがって通常の事業債権者の皆様は壇の前にお集まりください。」と話し始めました。私の会社の債権もその部類に入るので「そんなこともあるんだな」と思いながら、代理人の元に移動したのでした。
代理人:「お集まりの方々の会社のお名前を申し上げて頂ければ、用意していたご返金できる金額を記載した資料をお渡しします。異議が無ければ、そのままお帰り下さい。当然に後日異議がでても期限内であれば話し合いに応じますので、ご決断は後でも結構です。壇上に名簿がありますので、異議の有無に〇をつけてお帰り下さい。」
集まったいわゆる事業債権者たちが次々と会社名を告げると、代理人の助手(秘書)が、資料を配り始めました。もらう資料はどれも同じですが、買掛債務の一覧と、そのうちの消耗品債権のうち〇〇%を支払う旨が記載されておりました。それは前渡金に対する一部の返金となるようでした。
当時、今の様に再生型の倒産と言えば、上場企業のような社会性の高い法人が申立てる会社更生はものすごくハードルが高く(今でも)、そのほかには和議というものしかありませんでした。和議と言えば明治時代から続いた法律で、最初は裁判所の保全命令がありますが、開始決定から説明会などは形ばかりで、最後の債権者集会で返済計画が示され債権者の同意を得て可決されても、その後はまったく履行されず「ほったらかし」になる事が多いものでした。
なので、返済計画などで全額弁済をうたっても守られることなどまずなく認可されてすぐに債務者(社長など)が夜逃げして(実際はどこかに匿われたり外国に逃げている)、会社は放置される事が多く「逃げ得な法律」と言われていました。暴力団や事件屋などが計画的にこの法律を利用するケースが多かったものです(倒産列伝010~ヤバい先生らのプチ列伝③【のんだくれ先生】ご参照)。
この様に大抵の和議を申立てた会社が、いわゆる債務を踏み倒し代表者は夜逃げしたように見せかけ、何事も無かったように自分の子息や部下、はたまた子分に会社を新設させ陰で操り、再起を成すパターンが横行した時代でありました。
ちょうどMs社が倒産したタイミングでは、国がそれらを問題視されていたときで、申立代理人が裁判所と事前に話し合い、破産法で債権債務者を保護したあと例外的に対応する事例を見かけるようになりました。この間に学者や法曹界などでは、民事再生を生み出す準備や会社更生を改訂する話し合いが進められていたのだと記憶しております。
(倒産列伝016~馬を買ったと思えばいいよ⑯につづく)
