Fさんのことを疎ましく思っていた社内の人たちは、彼の去就についてみな興味のないふりをし、あえて無視していて、このことが社内で話題になることも盛り上がることもありませんでした。
また、今回彼が何をやったのか、わからなかった人も多かったのだと思います。
あの頃は、企業の買収合併などについて、用語や解説も少なく手法も知られていませんでした。
一人のサラリーマンが、年商数億円に及ぶ企業を買収するなんて誰も考えなかったと思います。
考えたとしても相当な勇気が必要で、実際に行動に起こすことなどできなかったと思います。
バブル期の実績を引っ提げて、取引先に対し顧問や上席役員での再就職を要求する人はたくさんいたと思います。しかしその清算期では本物の実力を問われる様になりハッタリは通用しなくなっていました。
民間で退職後の雄とされていた銀行の支店長経験者なども、当社に至ってはバブル前は役員スタートだったのが、バブル清算期には係長代理からのスタートまでステイタスが落ちてしまい、どんなエリートでも過去の看板・肩書のハロー効果は通用せず、まずは実力を試される時代になりました。
そんな時期にFさんは、中小企業ながら故郷では大手の同業取引先であった会社に請われて役員になり、その後すぐに早期退職で得た金を前代表の持株すべてにつぎ込み、買収したのでした。
当時のその会社の財務諸表を見ましたら年商を上回る10億円近い巨額の借入れが残っていて、まさに業績次第では貸剥がしの危機にあったのを記憶しております。
そして突然の買収劇に、銀行などの利害関係者や信用調査会社の人たちが詰めかけたのでした。
「いつ貸し剥がしに入ろうか」と手ぐすね引いていた連中は意標を突かれ、焦ったのでしょう。
当時は「事件屋」の引き起こす詐欺事件も多かったのです。
疑いの目でヒアリングと称して来訪する連中に、Fさんは自身の経歴を一切言わず対峙したのでした。
そこで連中を驚かせたのは、彼の得意中の得意であった討弁力でした。
銀行の優秀な融資担当者や役職者を次々と論破し、懐疑的ながらも「わかった、そう言うならしばらく実力を見よう」と思いとどまらせ、様子見させるほど理論整然とした説得力に、訝しさは晴れないものの「なんか違う」という事にもなり、次々と返済猶予を獲得していったのでした。
しかも、それまでの金利も据置き、なんと言ってもおどろいたのは先代が応じていた連帯保証を解除させたうえ自分も保証しなかった事でした。
ある信用調査マンから「この人物の素性が分からないのですが、ご存じですか?」と照会が入りまして内容を伺いましたら、私は思わず笑ってしまいました。
私:「あぁ、この人は私の上司だった方です。素晴らしい実力の持ち主で、当社でも一時代を築いた方です。クセはありますが怪しい人物ではなく信用して大丈夫ですよ。」
と言って返したものでした。
そしてその後、信用調査書には「かなりの論客ながら素性はわからず訝しいものの、大手メーカーの部長職で一定のキャリアを有していた人物と聞かれる」と表記されるようになりました。
その後は「叩き上げの本物」「骨太の実力者」として本領を発揮し実績を積み上げ、それ以降の信用調査書にも「借入先から一定の評価を得た」とのコメントが入る様になり、年を経て債権者の信頼を勝ち取ってしまったのでした。
私にとっては「すごい」の一言に尽きました。
世間から蔑まされやすい業界の創成期からいる人物が、銀行を含め一流の業界外の連中と対峙し交渉を有利に進めるという「全く通用している姿」、この様な社会の大海原に出て活躍する先輩を見るのはとても誇らしいことでした。
その様な彼が、周辺の若手経営者や古株経営者から、「先生」として相談を持ち掛けられるカリスマになるのに、時間はかからなかったのです。
いっぽうで当社は、Fさんの前の代表の時から基本契約を締結し顧客として与信枠を設定しておりましたが、ほとんど取引が無く休眠に近い口座だったので、私は最低枠まで減額処置を行っていたのですが、Fさんから「自分が社長になったので途絶えていた仕入れを再開したい」と要望があり、与信枠を増額する必要があったので営業部門は担当として異業種から転入組のN君を当てがったのでした。
当社は、基本契約を交わす際に連帯保証を取得することもマストにしておりました。
これは金融機関とは異なり必ずしも債権リスクのヘッジと言うだけではなく、同業として共に手を添えて発展するためには、特に経営者がオーナーであり絶対的支配力を持つことの多い中小企業においてその「人」すべてを信用し価値を見出す必要があり、そのけん制機能として、必ず当社の設定した与信額までを保証して頂くことを説き、理解を得て運用していたのでした。
したがってFさんに対してもまず、増枠にあたり連帯保証の取得と増枠のための資料開示を求める必要があって、N君はチャレンジしたとの事でした。
Fさんの、長時間にわたる説教と崇高な理論を聞き「勉強になりました」と返えす刀で増枠に必要な条件を提示したそうです。
しかしながら、予想通り「連帯保証はしない」を主張してきました。
Fさんご自身が営業部長だったころから、当社が取引先に求める連帯保証制度はありましたから当社が要求してくることやその意味も良くご存じだったはずです。
Fさんは、ご自身が社長になってから信用調査書への決算書の開示もやめておりましたので、そうなれば増枠に必要な資料としては決算書を頂くのがマストとなります。
私は、営業部門長を通じてN君に「連帯保証をしないのなら、決算書(貸借対照表、損益計算書、株主資本変動計算書等々)の提出が必須」と交渉させましたところ、あっさりと提出してきたのでした。
気持ちよくなったN君は「今後とも現状の条件を維持するには決算書の開示」する事と「決算内容が良くも悪くても定期的に提出して欲しい」旨を告げたとのことでした。
その際、N君は頂いた決算書をすかざず自分の鞄にしまったらしいのですが、おそらくその所作をFさんは見ていたのだと思います。
それから一年がたち、再びFさんの会社の決算期が過ぎて3か月ほど経った頃、つまり決算書を頂くころ合いになりました時に、N君は訪問の際うっかり頂くのを忘れてしまったらしいのです。
私に指摘されて、あわてて電話で決算書の提出を申し入れたところ、Fさんが満を持して怒りを爆発させたのでした。
Fさん:「年に一回、必ず提出する事を条件として与信枠を継続する事になっているにもかかわらず、お前は要求してこなかった。昨年、お前は俺の渡した決算書を何も見ないで鞄に入れた。ウチに対して興味が無いのは明らかで、今回要求すら忘れていた事で決定的になった。提出の準備はしていたが決算書を出さなくてもお前が与信枠を維持できるという事なら、今後お前の会社に決算書を渡す意味は無い。また1年間付き合ったが、あまり通ってこず、持ってくる経営情報も貧弱でメリットも少ない。商品だけならどこからでも入手できる、だから今後お前がウチに来る必要はない!!」
と言い放たれてしまったのでした。
N君にとって痛恨のミスとなりました。
私は常に取引先から決算書を頂く際は営業マンらに「決算書は会社の健康診断書であり、代表の実力を示した表でもあるから、彼らが外部に見せる際はよほど緊張するはずである。代表の身になってその痛みを感じとり、頂いた際は中身をさっと見て、“いいところ”をピックアップし褒めるのが望ましく、常に取引先の業績には興味がある姿勢を見せ、そしていい時も悪い時も代表の味方になることをアピールし毎期継続的に徴求し、そして頂ける関係を構築すべき」と説いてまいりました。
単なるリスクヘッジと読み取られる様な徴求はしない様に気を付けるべきと言っておりましたがN君はそんな忠告など忘れ、Fさんの怒りを買ってしまったのでした。
話の長いFさんのところへ定期的に通うのは辛かったでしょうが、N君のスキルの足りなさはFさんにとって断然に物足りなく、決算書を見せたくないという意思も相まってこの様な事態になったのでした。しかし、Fさんが当社の部長職であった時の部下だった常務は、性格を知っていたので「しょうがない」となり、あまりフォローする事なくまたN君の怠慢にペナルティを科すことも無く、当社は貴重な取引先を失ったのでした。
私、与信管理実務者としてはこの決算書の取得ルートが途絶えてしまい、またFさんがアンチ当社のカリスマ的宣教師となり布教してしまったことで、当社がA社の再生に協力して再生を果たすという自分の目指すべき活動にも水を差す結果となってしまい、不本意な一例となってしまったのでした。
そして話は元に戻ります。
こうしてY氏は、前々からそうだったもののFさんの影響も後押しし「アンチ当社」を正式に告げた後は、ほとんど当社側とコンタクトを取らなくなりました。
そうなるのは時間の問題だったのかもしれません。
そんな当社の営業部門も、Fさんの影響を受ける更生会社(旧A社)のことなど気にせず無視するようになり、疎遠な関係になった担当のグルメW君が責められることもありませんでした。
我々与信管理の担当だけが、モニタリングのウオッチを続け、数カ月に一度入金される更生債権の弁済処理を行うだけとなっていったのでした。
またハローページの様な分厚い更生計画書についても資料保管用キャビネットにしまわれたまま、進捗などに営業側が目を通すこともありませんでした。
私の思い描いた、再生ドラマとは大きく異なる展開となってしまっていたのです。
現実はうまくいきません。
かかる時間が長すぎました・・・。
(⑲へつづく)